sofyukiの日記

名前に意味はないのよ? 

富士学校開校60周年記念行事富士駐屯地祭 パート6 大戦戦車!

 訓練展示終了後、目的のモノが置いてある場所を探します。

 

 訓練展示後、各車両が通ったため、轍の残る道路。戦車が通る事も想定されているため、固めのコンクリートでしょうか。

 

 戻ってゆく大砲。FH-70はガソリンエンジンを搭載しており、短距離であれば自走による展開も可能だそうで。

 

 自衛隊の車両群。詳しくはよくわかんないですけどね。

 

 見つからん…とフラフラしていると、上空でヘリが。この後、記念行事を行ったグラウンドにて、90式乗車体験と装備品展示が有るので、そこに向かっているよう。

 

 折角だからと追いかけてゆくと、後続のヘリがちょうどやって来ました。

 

  そこから別方面へ向かって行くと

  見つけました!

どうやら、違う所を探しまわっていたようで。グラウンド直ぐそばにありましたよ…。

 

 自衛隊の退役済み(一部現役)車両を展示してある所で、私が見たかったのは写真右側に写っている2両。このアングルからでも、分かる人は判るんじゃないでしょうか(笑)。

 

 ハイ、M4シャーマンです。自衛隊に供与された車両はM4A3E4、通称イージーエイトと呼ばれるタイプで、フォード製GAA液冷V型エンジンと76.2ミリM1A2砲を積んでいるのが特徴ですね。

 

 近くで見ると大きいですね。

 米軍の第二次大戦に於ける戦車といえばこのM4。フォード閣下の大量生産技術によりアメリカは、各種兵器をアホみたいに量産しまくっており、陸戦兵器大量生産品代表がこれ。フォード閣下の生産ラインシステムは、まさに戦争の常識を変えてしまったと言っても過言ではないのですが、長くなるので割愛。いづれやりたい。

 総生産数は約5万輌、尋常な数ではありません。全長6m、隙間なく並べたとしてその距離は300kmですから、一号車集合の後、お前らの車両は五万号車な、と言われた日には東海道新幹線で1時間、高速道路で3時間、歩いて4日かかります。

 そのおかげで、アメリカ陸軍の作戦行動には常に大量のM4が存在しました。戦車と言えばドイツですが、M4の生産数のみで大戦通してドイツの生産した戦車の数を上回っているのです。ドイツにおけるPz.Kpfw.IVが、全て合わせて約1万輌。ソ連、コーシュキン閣下のT-34が約5万輌強。東西から自軍戦車戦力の倍以上の数で攻められてのでは、キングタイガーやヤクトタイガー等の、量より質を重視した気持ちも分からないでは無いですね。ちなみに、某島国の悲しくなるような少数の量産兵器は、フォードの大量生産技術を導入し損ねたのが原因の一つと私は思ってます。

 

 ホント、車高が高いです。というのも変速機が全面、車体先端の湾曲した部分に置いてあり、そこから車体下部のドライブシャフトで連結されているためと、空冷の星型エンジンを搭載しているためですね。車体全面に変速機を搭載するのは、被弾時の事を考えるとあまり宜しくは無いのですが、M4及び共通の車体を持つM3は一体成型の装甲板により守られており、あのタイガー重戦車の装甲以上に堅牢な装甲板によって守られています。

 

 足回りの一枚。サスペンションのバネが水平に通してあるのが特徴で、横倒し&両端に車輪をくっつけた飛行機の降着装置みたいです。

 

 正面から再掲。主砲のM1A2(エイブラムスじゃないよ)は、RHA*130度、距離1000m換算で

 M62APC 92mm

 M93HVAP 127mm

 APCBC   88mm

と、特殊弾の使用であの有名砲、17ポンド砲のMk.8TAPCBC弾と同じ位のスペックであり、優秀と言えます。

 

 日本が運用したのは232輌で、1972年退役。車内が欧米の人に合わせて作られていたため、アクセルペダルに足の届かない操縦士も居たとか。

 

 ただ、M4は戦後日本初の戦車戦力ではありません。

 M24チャフィーが375輌、1952年に供与されており警察予備隊、保安隊、陸上自衛隊の移り変わりを全て経験した兵器ですね。コイツが戦後日本初の戦車となりました。

 余談ですが、警察予備隊National Police ReserveのPoliceは治安維持というニュアンスが含まれており、正確には治安維持予備隊とするべきでは、と思っております。元々GHQの命令で創設されたものなので、National Police Reserveを和訳したものですが、誤訳じゃないですかね。

 

 M24は、1944年に生産が開始された軽戦車で約5000輌生産された戦車です。1941年にDAK*2と戦ったM3のデータを元に、75ミリクラスの主砲を搭載した重装甲な軽戦車という、ツッコミ所満載の計画がぶち上がります。当然ながら重量オーバーを起こし、M7中戦車として採用されるもM4と何が違うん、と至極まっとうな判断のもと生産中止。その開発成果を拾い上げて生まれたのがこの軽戦車です。

 チャフィーと言う名は、アドナ.R.チャーフィーJr将軍から取られており、電撃戦閣下ことグデーリアンのように、アメリカ陸軍で機甲戦術を提唱した第一人者ですね。

 少し話は変わりますが、個人的に、7人兄弟の棺桶とか言われてたM3の愛称があのリー将軍というのがあんまり納得できなかったり。南部連合についていた事への嫌がらせでしょうか。

 

 装甲は主要部で24ミリと、対機関銃レベルの装甲です。軽量化のため、避弾経始を重視した設計となっており、非常にスマートな印象を与える戦車でもありますね。

 

 主砲はM6 75mm砲で、RHA30度1000m(アメリカ側の情報源では100mとなっていたが、間違ってますね。1000mが正解です。)で

 M72AP 88mm

 M61APC 76mm

と言った感じで、対戦車戦闘については4号戦車なら対抗可能と言うレベルになってます。

 

  M4中戦車と比べて、大分洗練されたフォルムです。車体が小さく、97式軽装甲車と操作性が似ていると、乗員には評判が良かったそうな。今みたく、北海道に大量配備されている状況ではなく、全国に少数分散配備されており、結構有名だったそうな。銀座を走行するM24の映像も残っており、なかなか凄い時代だったようですね。

 

 このM24の後継として1961年、61式の採用年度にM41ウォーカーブルドッグが有償供与と言う形で147輌導入されています。軽戦車という形態の限界から、61式で置き換えられて行ったようですが、退役は1983年。全車両がアメリカ側に返還されており、日本国内には残念ながら一両も残っていません。その返還された一部車両は、台湾陸軍によって再度使用されていたとか。

 

 M32戦車回収車。M4戦車の車体を利用した戦車回収車で、80輌日本に供与されました。主に、撃破されたり行動不能になった戦車を持ち上げて引きずる車両です。

 

 他にも、各種装備が並びますが次回にでも軽く。

9/21一部修正

*1:均質圧延装甲鋼板

*2:ドイツアフリカ軍団。砂漠のキツネことロンメル閣下が司令官だったことでも有名。